41 姥捨 ― 「姥懐」由来 ―

 むかしむかし、不作が何年と続いて、餓死する者が毎日毎日何人と出はじめだんだどはぁ。 して、藁餅、松皮餅、ドングリ餅、ワラビ粉餅、いろいろの食いものはみな食って、山菜、野草などは言うに及ばず、 そういうものはみな糧(かて)ものとして食たげんども、米櫃の米も底をつき始めだんだどはぁ。
 ほの頃、江戸ではいろいろの大名連中が対策の相談をしていたんだけど。その時、信濃国の殿さまが大変おそろしいことを発言したんだど。
「年寄なていうな、口ばりヘラヘラて言うて、仕事の邪魔したり、鬼むかしなのばり語って役に立たね。 ほしてグミの種子みたい、梅干みたい、小田原チョウチンみたい皺のよった顔なの、あるいはもの食うどきモグモグていう、あの、物噛むときの歯の具合なの見っど、 よくよく見っだくないから、まず年寄ば山奥さ捨てることにしたらええがんべな。六十才すぎた、じさまとばさま、山さ捨てっずど、大分食いものが余って来んべな」
 なて言うこと言い始めたんだど。やっぱりどこの国でもねらわれんのは、年寄と餓鬼べらだていうことなんだど。 ほしてそいつさ反対すっかと思ったれば、他の大名もみんな賛成したんだど。
 現在の本庄村周辺の年寄は、捨て場としては今の梅本沢の右側の山、なだらかで下界がよく見えるし、上の方にはきれいな水がちょろちょろと湧くところがあって、 ほしてそこがええどこだからて言うわけで、ほこさ捨てることになったんだど。ほして六十才以上の人を捨てて来ねな分かっど「家族全員みな殺し」という触れが出たんだど。 ほして村々では、
「何という恐ろしいことだ。親ば捨てることなんか出来っか」  なて、いろいろ相談が何日も続いたげんども捨てねどすっど、どんなひどい目に合せられっか、罰受けんなねか分んねんだけど。
「ほんでは、せめてお寺建てて、そこでお経上げてもらって、引導渡してもらって…」
 ほして梅本沢のきれいな水で水盃して、長男が負(う)ぶって、家族全員に送らっでほして行ったんだど。
 今でもそのお寺の跡があるわけだ。送って行った人も、あるところから、そこでお別れしんなねと、そこを「送り沢」といって、ほして、
「じんつぁ、ばんちゃ、御免して呉(け)らっしゃいはぁ」「許して呉(け)ろはぁ」
 て、長男が山の奥へ奥へと、雑草かきわけて、親を捨てに山さのぼって行ったずま。ほして昔ぁ狼がいっぱいいで、下に置くわけはいかねので、 木の股のところにヤグラ組んで、ほこさ置くと、こんど熊鷹がおそって来る。二つ三つほどハジキていうの作って呉(け)だんだど。 今でも六十才すぎると〈木の股〉だぁなていうことを、当時のこと思い出して語っていることあるげども、何人かの老人が捨てられ、鷹や狼の餌食になった。 あきらめながらも、背中をまるめながら、木の上にチョコンと座って、何人かまだ話し掛けっだいような、語りたいようなじんつぁん、ばんちゃんを振り返り、 振り返り、山どんどん駆け降りて来るんだけど。
 村のある親思いの若者いだんだけど。いよいよこの若者のかあちゃんも六十才になってしまったんだどはぁ。ほしておかちゃん捨てに山さ登って行ったずまぁ。 して、ほの途中、背中のおかちゃんが手を伸ばして、ポキンポキンて木の枝を折(おだ)っているな気付いたんだど。ほして息子さ、
「体大事にして呉(け)ろな。お前が迷子になんないように、木の枝を折(おだ)って来たから、ほの道戻れな」
 て言うたんだど。はいつ聞いた若い者は、親のありがたさに、しみじみと泣けて来たんだけど。
「こだな、大事なおかちやんば捨ててなるもんでない。もう一度暗くなったら迎えに来っから」
 て言い残して家さ帰って来て、大いそぎで家の下さ孔掘り始めだんだど。ほして暗くなってからおかちゃん迎えに行って、穴倉さ隠したんだど。 村では山さ置いて来た年寄のことぁ気になって、みんな仕事も身が入んないし、夜もうまく眠らんね人も出て来たんだけど。 ほしてぼんやりしたまま、毎日毎日、ほだな日が続いたんだけど。
 ほの頃、水野の殿さまから松平の殿さまがいろいろ圧力かけらっでいたど。ほして二頭の馬よこして、どっちも同じ大きさで毛色も顔や形もすっかりよく似っだ馬、
「どっちが親子だか当ててよこせ、んねど(そうでないと)お前の国ば滅ぼしてしまうぞ、取ってしまうぞ」
 て言(ゆ)ったんだど。いろいろと触れ出して、ほして、
「はいつ当てる人、いねべがな」
 て、探したんだど。ほして早馬で村々触れて歩(ある)たずま。ところがはいつ聞いた若者が縁の下のおかちゃんさ語ったんだど。したればおかちゃんが、
「ほだな、わけないっだな。おら家でも親子二頭の馬飼ってだときぁ、真中さ馬の大好きな草置くど、最初バクバク食べんのが子馬で、 子馬がある程度腹くっつくなるまで、ずうっと番していんのが親馬だった」
 て語ったんだど。はいつ聞いた若者が早速殿さまさはいつ申上げだんだど。ほして、はいつ語ったれば、「うん」て向うでうなずいだけぁ、当てらっだもんだから、 今度ぁまた別の問題出したんだど。
「んだらば、こんど灰で縄なって来い。ほんでないど、お前んどこ攻め滅ぼすぞ」
 かいつに、また困ってしまったんだど。ほしてあの若者だらば知ってっか何だかて相談来たわけなんだど。 したれば若者はまた縁の下さチョロチョロと入って行った。おかちゃんに聞いだんだど。したれば、
「はいつぁなぁ、縄をきつい塩さ漬けて、ほして乾かして鉄板の上でこんがり焼くと、そっくり残っから、はいつ持って行って見せろ」
 こういう風に言うたんだど。ほしてほの通りしたれば、やっぱりまた、
「うん、これはまたしてやられた。んだらばいま一つ、ここに一つの玉ある。この玉には曲りくねった孔がある。この孔に右から左に糸を通してまいれ」
 またいろいろ考えてみたげんども中曲りくねっていっから針では通らない。糸そのままやったって柔(や)っこくって通らない。 硬いものもやっこいものも通らない。何とも仕様ない。
「ほんでは仕方ない、またあの若者どさ行って聞いてみんなね」
 早馬とばして聞いだんだど。したればまた若者が縁の下さチョロッと入って行って、おかちゃんに聞いだんだど。したら、
「はいつなぁ、片方に甘ごいもの、蜂蜜でも飴でも塗って、他の孔から蟻コの胴さ糸ば結んで放してやっど、蟻コは、ほりゃ甘ごいも食だいもんだから、 中、チョロチョロ通って行って、ほして紐が通(とお)すい」
 て、こういう風に教えだんだど。ほしてそのようになって糸を通してもって行ったら、その水野の殿さまでは、
「あだな、ちっちゃこい国でも、こだな何でも知ってる智恵者がいたんでは、戦さなんか仕掛けても、どだなことされっか分んない。早速はぁ、和睦申し出るに限る」
 ていうわけで、松平三万石がその若者のために救わっだわけなんだど。ほして殿さまが若者に、
「何でものぞみのものを取らす」
 ていうたんだど。若者はすかさず、
「年寄、山さ捨てることだけぁ、やめてもらいたい」
 て願ったんだど。
「実は今の今までのことは、全部年寄の長い経験と巾ひろい智恵である」
 ことを一部始終語ったんだど。したれば、殿さま感服して、
「うん、今日限り年寄捨てることはしなくともええ」
 もう二・三年おもったもんだから、食料事情もええぐなって来たことでもあったろうし、そういう風に言うたんだど。 ほして、もう木の上で生きてるものは山よりつれ戻せ、という触れ出したんだど。ほして縁の下に入っで、そのおかちゃんにいろいろの事聞いたとき、 いつでも手ば懐さ入っで考えだんだど。んでそのばんちゃんがいつでも考えるとき、昔の人は胸勘定ていうた通り、胸さ手当てっだ。 いわゆる懐さ手入っだ。ほしてよく考えたり何かえする人だった。んだもんだから、その年寄を村中捨てたばんちゃんが、何で救ったがていうど、 ほのばんちゃんの懐で救ったもんだから、今でも「姥懐」ていう名前が残っているわけだど。ドンピンカラリン、スッカラリン。
(集成「親棄山」五二三A)
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