22 善心坊  

 横浜の近在に芒(のげ)の浦というところある。その芒(のげ)の浦に青松寺という寺あったと。夏のおむれたい日(むし暑い日)のちょっと小雨の降る真暗な日であったと。和尚さまは、
「小便たっで寝んべはァ」
 と、出はったところが、かまわず裏の山にすばらしい赤子の泣き声がする。
「奇体だな、死んだ人は泣く訳はない」
 と、自分がそっと見たところが、坂の上の玉椿が大唐傘みたいに広がっていたのあったと。その下に赤子らしいものがいて、泣いっだのだと。そっと手やって見たらば、着物の上さ赤子いたったと。それから、小僧っ子も大勢いっから呼ばったと。
「何か此処にいたから来い。赤子のようだから提灯もって来い」
 提灯もって行ったと。そしたばやっぱり捨子であったと。そして提灯でよく見たところが、善四郎という赤子だったと。そしてその赤子が父親の位牌を背負っていたったと。その位牌を見っど死んでから僅か二三ヶ月しか経たないのだったと。そしてその傍には一枚の短冊があったと。
 こうする 芒の浦風身にしめど
    捨てずばとても 親を助けん
 と言うのであったと。和尚さまは、
「いや、おらだは親はいないし、子どもは一人も持っていないずだ。これァとんと仏さまの授かりもんだ」
 と、思って、拾って来て大事にしておがしったと。善四郎と言うのだったから「善心坊」と名付けたらええがんべなと、そう呼んでいたと。そして小(ち)っちゃな内から勉強して、六つ七つで一丁前になったと。
 ある時、お江戸から日本一の布教師が来たと。日本一の布教師だから、つつしんでよく聞いてよく憶えておれと言ってやったと。いよいよ次の日になって、善心坊の姿はその場に見えないがったと。実は障子のかげで聞いていたったんだと。終ってから、
「何しった、貴様。あれほど昨夜(ゆんべな)和尚さまに教えらっじゃに、こんなことして…」
「いやいや、俺は、語ることなど大体分る。ほんでも話語っときざァ、手動かしたり身なり動かしたり、その身のふり方を、障子さ穴あけて覗くってみて、ああいう話を語っ時はああいう恰好、こういう話を語っ時ざァ、こういう恰好としないでは、話というものはみんな呑み込まんねもんだから、俺は恰好見しったんだ」
 と言うたと。
「ほんでも、和尚さまの言うこと聞かないざァない」
 と、ぐるりから頭くらすけらった(叩かれた)。ところがお江戸の和尚さまはそういうごとであれば、
「お前は俺よりもまだ賢こい子供だから、俺もらって行って育てっから…」
 と言うて、もらって行ったと。そこで修行して日本一の布教師になったと。
「いやいや、俺は日本一になっても、この短冊を見っど、俺の親はまだ生きていっかも知んね。日本中尋ねても親に会わなくてはならないと思ってこれから日本中の寺々を廻って布教に廻るつもりだ」
 と。そんで布教する前にはお経は付きものだげんども、その次に言うのは、「芒の浦風身にしみて」と言うて、
「この歌の文句知ってる方はございませんか」
 と、何処さ行ってもそれを語ったと。日本中語ったげんども、知った人はいなかったと。仕方ないから、今度はお江戸から行って、元の捨てらった時の寺さ行って住職になることになったと。そして新参式だから、日本一の布教師が来るのだからと、誰も彼も、さまざまな和尚さまがいっぱい招いて来たったと。みな羽織・袴で立派ななりしていたとき、いよいよ新参式では御挨拶に先立って、一言こういったと。
「俺は日本中さがしてけんど、いなかった。諦めてはいたけんど、こうする、〝芒の浦風身にしみて〟の下の句知ってる人ありませんか」
 と、こう言うた。そうしたらば、よくよく座の尻尾の方にいた。まるですり切れ茣蓙に杖棒ついで、汚ない着物でザンギリかぶった婆ぁ、ひょこひょこと来たと。そして、
「捨てずばとても、親を助けん」
 と、こう言うたと。そん時、善心坊和尚は感じて、
「ああ、これを知っていっこんだ ら、年頃から追(ぼ)っても、この人は俺の親だ」
 と、思ったと。みんなに、
「そんな汚ない恰好して前さ行くな」
 なんて、妨げらっだげんども、善心坊は手まねきして、呼んで話語ってみたところが、
「親父が死んで、中風になった婆ぁ一人いたったので、子を捨てっか親を捨てっかと思って、悪いと思ったげんど、お前どこ捨てて、親どこ介抱した。ほんで此処さ捨てたので、悪いと思って、一日(ひして)に一ぺんぐらいは此処の墓場どさ来て、横浜を離れたことは一日もなかった」
 と、涙の対面したったと。どーびんと。

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