20 一粒の飯 

 むかし、曹洞宗本山、能登の永平寺の管長であった杢仙和尚という人がいたったそうだ。和尚は到って経済家であって信仰家であった。また物に感謝ということ、有難くて手合せる人であったと。
 ある時、百人とか二百人とかの修行小僧がいたったと。修行小僧は若いのばりだったと。杢仙和尚は朝げ起きてきて、手水を使って帰り、若い小僧がお賄いして、廊下さ御飯一粒落してあったと。管長さまが膝まずいて手合せてお飯(まま)一粒拾って、何べんも、
「もったいない、もったいない…」
 と戴いていたと。そこさ大勢の小僧が御飯もって来たり、お膳もって来たりして、どんどん通ったと。そしたらば、和尚さま座っているもんだから、何しったもんだと思って聞いたと。そしたらば、
「米というものは、生命をつなぐもんだ。どんなお飯一粒でも一時の生命をつないでくれるんだ、なしてお前達、投げたんだ」
 と言うたと。
「投げたでない、こぼれたのだ」
「俺は、毎日、掃き掃除をきれいにしておけと言うているのだから、廊下だろうが何処だろうが、黴菌一つないと思っている。ごぼっだもんだってもったいない、もったいないと三度戴くと決して汚ないもんでない」
 と、食ってしまったと。そしてその後で、こう教えたと。
「第一、お前だ考えんなねことは、感謝ということだ。これは百姓が八十八ぺん手掛けて作ったというげんど、百姓ばりで米とれるもんでない。その中では肥料屋・農具屋もいれば、みんなでとった米だ。万人の恩があっから、大事に感謝はさんなねのだ」
「…」
「その次には、随身ということだ。しょっぱい時には少し食えばええし、甘いときにはいっぱい食えばええ。ちいと固(こわ)い御飯(まま)のときには、ねつく噛んで食えばええし、柔(やっこ)いときにはその通りでええんだ。その次は節制だ。美味いから五杯も十杯も食うとか、美味くないから少し食って、晩にいっぱい食って呉(け)んべなんて、そんなこともわるい。その次に、反省だ。こういうような有難い御飯を俺は食うだけ稼いだか、稼がねか、稼がねごんだら、俺は食(か)んねのだ。最後に使命だ。いわゆるこの有難いものをいただいて、それだけの働きを俺はさんなねんだ。こいつは、食事五訓だ」
 と、小僧っ子は教えらったと。
「こぼった一粒を粗末にするような者は、位など呉(け)らんね」
 と言わったと。とーびんと。
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