26 三韓征伐

 新羅・高麗・百済の三韓を征伐しない じど、日本が困っからと、天皇は考えて ござったうちに過ぎやって、その妻の神 功皇后という女は仲々な女でござったも んだから、天皇は日本のために征伐しな いと困ったと考えて、えらい家来ばり率 いて三韓征伐にござったど。そんどき子 どもが腹さ入って五ヶ月だったそうだ。
 そして神様さ、
「これ征伐しないうちには、子どもは出 ないようにして…」
 と、お祈りして、馬さのって、弓矢た ずさえて三韓さ行ったところぁ、新羅の 王様、たまげて、
「たとえ川水は逆さに流れるとも、お天 道さまは西からできて、東さ入るとも、 属国になって長く貢ぎ物を上げるから、 どうか許して呉 (く) ろ」
 と、そこさいっぱい宝物を出して、征 伐しないことにした書いたものもらって 帰 (かえ) やったとき、腹の子どもは十二ヶ月 だったど。その子どもが仁徳天皇でご ざったど。
 仁徳天皇の幼いときは、なかなかきか ない子どもで、近所の子どもと遊んで御 殿を騒がしいことにして、そういうこと きかねことする者こっちさ来い、罰を与 えてくれる。というど、後の子どもはみ な逃げて行ったげんども、その皇子ばり、 すすんで来て、
「どうか罰を与えて呉 (く) ろ、なじょにも罰 を与えて呉 (く) ろ」
 というたど。
「悪いことした以上、天に梯子をかけて も登らんねし、土さ穴を掘ったて入って 行かんねしすっから、わるいことした以 上は罰を与えて呉 (く) ろ」
 と、こういう風にいった人だったど。
 それから天皇になって、御殿さ上って、 民の様子を見たところが、煙も立たない し、民は貧乏していたところ見て、三年 間の年貢をとんねようにしたらば、百姓 も安泰になっかと思って、三年間御年貢 とんねで、そしてるうちにまた登ってみ たら、煙があちこちから立っていたど。 んだほでに、
  高き屋にのぼりてみれば煙立つ
   民のかまどは にぎわいにけり
 という歌作って、民を愛しておくやっ た天皇でござったのは、神功皇后が三韓 征伐にござったときの、腹さ入っていた 子どもだど。
(海老名ちゃう)
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