17 琵琶頸の俗地名と十三・七つ

 露藤の名左ヱ門さんは村ではの旧家、人望もあり、米沢藩学に学んだ人であっ て、当時は名主をつとめた人でした。藩学は米沢藩士のためにもうけられたもの でありましたから、田舎のしかも百姓の身分で、ここに学ぶということは当時と しては実に珍らしいことでした。名左ヱ門さんはまた四ケ村堰役もしていました。いつも同家を訪れては、何彼と手伝っていた佐兵次は、名左ヱ門さんのお気に入 りでありました。川原附近に、鶴巻という所がありました。同家の畑もこの鶴巻 にありました。百姓にとって忙がしい春のある日、佐兵次は今日も名左ヱ門さん の所へ来て、畑仕事を手伝っていました。家から随分はなれた畑でしたから、働 きに来た人々は昼弁当持参でした。この鶴巻は高い所で松川をはさんで、糠野目 窪田の部落が指呼の間に見る所でした。丁度昼食の弁当が終った時でした。佐兵 次は、「なぁ、皆の衆、人々はあの土堤をびゃくびと呼んでいるが、よく見らっしゃ れ、あれは琵琶の形をしているから、琵琶首というのがほんとうなんだよ」と教 えました。それからびわくびと呼ぶようになったのだといわれています。
 長い春の日の働きを終えて家に帰る途中でした。丁度十五夜がこうこうと文殊 山の頂に出て、昼のように明るく、その美しさは筆舌に絶するほどでした。皆は 昼の疲れも忘れてうっとりと見とれていました。その時、頓狂な声で、「二十が出 た、二十が出た」と叫ぶ者がいます。見ると佐兵次でした。「何だ、佐兵次さん、 二十とは何のことです」と聞きますと、東の空を指さして佐兵次は「あれ、文殊 山から出ましたよ」というのです。「何だ、お月様のことか、どうしてお月様を二 十というのです」「お月様を見て、子供達はよく十三・七つというだろう、俺は十 三・七つというのが面倒だから、加えて二十といったんだ」人々は思わずどっと 笑い出しました。こうして疲れも忘れて家路を急いだということです。
〈明治四十五年・安部客次〉
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