8 五輪窪狐の狂歌

 露藤の部落から南に二町、天王川の流れの手前から作場道を東すると、部落の 共同墓地がある。墓地の東隣りに原があった。中の原という。けれども五輪窪原 の方は通りがよい。去年、中島部落の開墾事業として開墾し、過半は新田と化し 黄金の浪を漂わせた。
 昔の江戸街道は原と墓地の間を縫って北から南に蛇の台を通り、天王川の土橋 を渡って隣村下新田に延びて行く。この五輪窪は人里離れた処とて、狐狸の類、 棲息して道行く人を化かした五輪窪の狐の話は余りにも有名である。
 丁度その頃、部落の豪家平間藤四郎さん、十数年の間堰役(四ケ村堰)を勤役 してその功労大いに見るべきものがあった。同人については堰役としての美談は 沢山残っている。藤四郎さん、日々濠に添うて上り帰りは又濠に添うて下った。 又水増しのために濠の堤防が決壊するのを恐れ、自宅の流し場に危険個所(杭 を打ちそれがかくれると)と定めて置き、大雨が降ると夜中時分でも起きて隣家 の竹蔵(常人夫)を起こした。「竹蔵、堰の横口破るんだ」。熊手片手に大雨を衝 いて行く。こうして堰の決壊を未然に防いだ。常に語っていうよう、百姓は灌漑 用水ほど大切なものはない。今自分は一村の重大責任を負わされているから、少 しの事でもゆるがせにする事は出来ぬと、四ケ村の有志相謀り、其の徳をたたえ、 嘉永年間に露藤の分水口辺に表功碑を建て、其の功労を永久に残した。
 同人、四ケ村堰役として勤役中のこと、其の年は珍らしく旱魃であった。羽黒 川の水は不足して松川から水を堰上げた。堰祝いをした。元来上戸な同人、酔う と部落の茶屋で過度に呑み、遂に其夜は呑み明かした。暴飲暴食の祟りは恐ろし かった。これが為め数日床につかなければならなかった。四ケ村堰の水は見る見 る減水した。丁度隣家の佐兵次、同家の門口に墨黒々と一首の狂歌を書いて貼っ た。
    堰役も五輪窪狐に化されて四ケ村堀に水はこんこん
 というから、随分五輪窪狐には行路の人々は化されたらしい。藤四郎さんこれ を見て、これはたしかに佐兵次の仕業に相違ない、常々責任感のつよい同氏、心 配でならぬ。全快もせぬに病をおして勤役した。程経て佐兵次を招いた。佐兵や 心のゆるみが来たところ、貴様がたがをかけて呉れて、藤四郎も前の様になった。
 これからは堰役中決して酒はのまぬ。まず一つと結構な馳走をした。佐兵次は常 日頃、藤四郎さんの勤役振りには敬服して居ったから、少しの落度のため人々に 迷惑をかけ、人格を傷つけさせたくなかったが故に、それとなく戒めたのであっ た。
「親方、あなたは個人の藤四郎ではありませんぞ、四ケ村を背負っている。貴方 少し気をつけなさい」
 こうして佐兵次に教えられたのであった。同役の勤役中、四ケ村堰の水は満々 として流れ、四ケ村堰の人々は謳歌した。これを見た佐兵次、ある時白紙に一首 をものして藤四郎に送った。
    四ケ村の水は妙法蓮華経てれば照るほど水はだぶだぶ
〈弘化年中の逸話・高橋友吉〉
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