民話のこころ -(1)民話のこころ-

民話のこころ
私の民話序説
 陽が西に傾く頃、味噌をつけた子どもの頭ほどもある大きなヤキメシ(おにぎり)を葉っぱにくるんで、遊んでいる子どもたちに一つずつ母が呉れたものである。その日の遊ぶ場所によって、隣の母であったり、向いの母であったりするが、何といってもうまかったのは、自分の母の握ったヤキメシであった。「おにぎり」というより「ヤキメシ」という言葉がぴったりするのは、みんながそう呼んでいたからで、オニギリは遠足のときの海苔ヤキメシのことであった。
 火所(ほど)を長い火箸でかき廻して、その中に埋めた栗を掘り出しながら、祖母が語ってくれた民話の味は、「おふくろの味」がしたものである。「むかしあったけど、山合いの一軒家にな、飯食(ままか)ね嫁欲しいていう男がいだっけどなぁ…」と語りが始まると、子どもはすかさず「オット」と相槌を入れるのである。そこには話者と聞き手である子どもたちの新しい世界、小さな宇宙、輝きは真珠でもある宇宙が出現するのである。子どもにかける期待も大きかったにちがいないが、同時に子どもの知識の宝庫でもあったのである。その民話は母の乳房でもあり、母の匂いでもあった。また同時に家族全員が囲炉裡のまわりに坐って、大人衆は藁仕事を、母はボロを綴り合う、家族みんなが一つになって呼吸し合うことでもあった。
 中津川の岩倉というところの後藤とよさんに民話を聞いて、下手くそなガリ版の昔話集を出したことがある。その時、とよさんの孫さんである和枝さんからこんな便りをいただいた。中津川は「花笠おどり」の花笠の主産地である。
「寒さもきびしい冬になりました。おかげさまでおばあちゃんも元気で花笠作りの手伝いをしています。昔話の本とどきました。ほんとうにありがとうございました。私も楽しく拝見いたしました。中津川のおばあちゃんの昔話を読んで、笑ったり、ことばづかいがおかしいので、家族みんなで楽しみました。また来年も元気でおいでくださるのをおまちしております。(後略)」 民話は家族の心を結んでくれるものであったことは、この文面で十分理解できるというものである。しかし必ずしも楽しいものであったかどうかは、いろいろ問題の残るところである。
 飯豊町の大平・新沼という部落は以前には「曲げもの」作りの部落であった。ある話者はこんなことを語ってくれた。一家総出で冬仕事に曲げものを作ったものだが、この仕事はなかなか手数のいる仕事であった。その上に技術もかなりのものであった。
 曲げものの材料は楢や栗の木である。近くの山の材料では足りなくなってしまい、遠くの山まで行かなければ採れなくなってしまい、他町村である小国町や長井市の山まで出かけるようになり、日帰りが不可能となって山に泊り込んで材料を探さなければならなくさえなったという。
 そうして伐り出した木を、まず尺杖という曲り尺のように工夫して作ったもので、二尺五寸の長さにして、丸太状に切り落とす。これを「玉伐り」と呼んでいる。次にその切ったものを、斧で木目にそって棒板状に割ったものを、背負って家に運んでくる。これが農作業や山仕事の合間の秋の仕事である。その棒状板を曲げものの仕事が始まる冬まで、家の前に掘ってある種池に漬けておくのである。
 やがて秋の刈入れが終ると、池から棒板を引上げて、割り山刀(なた)というもので一分五厘から二分ぐらいの厚さに、木の年輪にそって割って行くが、それで失敗すれば今迄の仕事が一切無駄になってしまうのである。次に削り山刀という、両端に手のついた刃物でうすく板を削り、仕上げカンナをかけて、曲げにちょうどよい厚さにする。
 炉には真赤になるほど火を焚いて湯をわかし、板をその中に突込んで煮る。柔かくなったところをみて、丸く手で曲げて、合せ目にハサミをかけてから、その侭こんどは火棚にぶら下げて三日ぐらい火で乾かす。火棚にはいくつもいくつも曲げがぶら下り、乾くのを待っているものだったという。乾き上がると綴り目は桜皮でとじる。そして底は杉の板を丸く切って入れて、木釘でとめる。木釘の材料はウツギである。これに杉の木で柄をつけると出来上りである。ていねいなものは漆をかけたものもある。
 ここでながながと「曲げもの」の工程を書き上げたのは他でもない、この仕事に必要な技術もさることながら、家族全員がこの仕事を分担してやることを言いたかったからである。山から木を伐り出し、割って削る、カンナをかける仕事は男の仕事であり、煮たものを曲げたり、火を焚いたり、桜皮でとじる仕事は女の仕事であり、板を底に入れて木釘を打つ仕事は子どもの仕事であり、そのための桜皮とり、ウツギで木釘を作って用意しておくのも、それぞれ女、子どもの仕事であったという。
 この曲げもの作りのときに、孫が囲炉裡の周りで騒ぐのは、刃物がころがっており、火がどんどん燃えているのであぶないし、湯がいつも煮えたぎってもいる。仕事の邪魔でもある。そこでおばあさんの仕事は子守りすることであったという。「孫がさわがねように、一生けんめい昔話を工夫したものよ」というばあさんもあった。どこの家にも台所の板の間の片隅に掘りごたつが掘ってあって、そこが孫を相手のおばあさんの仕事場であった。他家で耳にはさんだ昔話は大事にしまい込んで家にもって帰ったものだという。
 なるほど、民話は子どもにとって楽しいものであっても、語り手であるおばあさんにとっては、どうしても語り伝えたい、語り伝えなければならないものであったという一面を私たちはそこに見ることができるというものである。
 白鷹町の百六十余話の伝承者である海老名ちゃうさんは、民話を知っているだけ語ろうと思い立った動機をこんな風に耳うちしてくれたものである。
「現在は世の中も変って、親に孝行するなんていう気がなくなってしまった。しかし親孝行は決して悪いことではないべえから、それを一つ語ってみようと思った」
 という。また、正直者が馬鹿をみたり、働かないで食って行こうなんていう考え方は、いつの世でも悪いことだともいう。そしてこうした考え方を一つ一つ温めて来た民話として子どもに語り継いで来たものにちがいない。目を細めて、おだやかな顔になって語ってくれた「山姥から宝をもらった話」は養老の滝の説話よりずっと美しい民話だと思われる。
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