木小屋の生活(2) -(2)木小屋の生活-

 ケゴヤというげんども、冬、稲などかたづけて牛の飼料でもバイタでも何でも入れんなねもんだもな。前には藁仕事したったもんだから、炉切って、寒いもんだから木焚いたり、炭起したりして、ぐるりで若衆は藁仕事しったもんだっし。半分とか三カ一とか板敷いて、そこさ炉石沈めておいたもんで春になっては板で蓋するようにして、そうすればまたそこで稼ぐわけよ。前には是非とも藁仕事すんなねがったからな。今みたいに、俵は編むことない、藁一本いじっことないわけだ。んだから藁なんていうのは、余って仕様ないげんども、やっぱり大きな百姓は田んぼですっかり切って、吹っとばして藁も何も形なくして来るもんだから、畳屋もずいぶんとひどい風だもな、大きな百姓さ行けば行くほど、買わんねど、藁なくて。去年、一昨年あたりから福島辺りからどんどん買いに来んもな。この辺さな。前には機械なてないべ、千歯で脱(こ)いでから、足踏みの機械な、「こいつはええもんだ」なて、こいつだごで。その次が動力でな…。
 木小屋には、近所から集まったもんだ。ここらだらば一町七・八反から若衆置いっだもんだからな。居っどこには二人もいたな。一町七・八反だれば一人はいたな。善五郎、伊佐ヱ門どこなどは二人三人ぐらい居たけな、二町五・六反だどな。年期奉公でな、あのあたり九十円から百円だったな、昭和四・五年頃はな。こっちは一年の半分前ということもあってな。旦那によっては一年の給料より高く出すのよ、何故っていえば、 「ひどい仕事、あれが来(く)っから、ひどい仕事は残しておけ」  ていうことになったから、そこで給料は旦那では見込んで、百円の年期奉公なら半年前だら五十円だげんども、おらえでは六十円出すというわけだ。んだからいまにひどい仕事ていえば、
「あれ、誰それ来っから、明日、明後日にしろ」
 なて、ひどい仕事は半分前の奉公人に残しておくていうこともあったな。んだから半分前の奉公人のいるものは、五円か十円高かったもんだ。前金借っだときには二年契約、三年契約というのもあったべな。
 高等二年卒業すれば、よっぽどな旦那衆でなければ中学や大学さは入らんねがった時代だから、すっかり稼がせっからな。その時代はシキセざぁあったもんだ。仮に十六才から二十一才までのシキセで銭取んねでな、その代り旦那で着たり食せたり、小遣い呉っで使わんなねな。そいつ終えればこんど給料は一年なんぼと旦那で出すっだな、年期が切れればな。シキセは旦那との間で決めるもんだったな。ほら、酒もタバコも喫みたいといえばやっぱり、なんぼシキセだていうても、盆・正月と契約とには小遣いは呉(け)っだごで。それからお祭りにな。そいつの分け前で足んないときは家元の父親からでももらって行く他ないがったべな。その時代はな。
 一丁前て言いぁ、縄ならば、三十尋ずつひろげたな十で一まるきで一人前だったごでな。雨ミヌだと一日(ひして)半日て言うたもんだ。荷背負ミヌは二日、そいつは旦那によって、大所(おおどこ)というてはおかしいげんど、旦那きぱっとしているどこでは、百円だら百円出したことになってな、雨ミヌが二日半日かかったりすっど、逆に半日分差引きされたりもしたもんだ。あんでひどかったもんだな。きびしいがったもんだと思うな。今考えっどワラジは十足、足高草履の場合は二十足、荷繩四本、モトチというど十二尋でないがったべか。
 むかしはひどかったなて言うたたて、耳さ入んねがら若衆などさ言うたて駄目だ。言うただけ駄目だ。なじょな暮しもさんねで、味噌漬などばり食せらっじゃなて言われっじど、それっきりだも。もっともおらだ草刈りすっどきは夜二時起きして草刈りしたずだ。まず魚なて、つめらんねがったな。弁当さなど。草刈りの時は茄子胡瓜出んべっし、自分で漬物さ生胡瓜の二本も入っで、味噌、弁当の脇さつめて生胡瓜さ味噌つけて昼飯食ってよ、そのくらいの程度だったな。
 木小屋に集まんのは、奉公に来ている人だけで、家の親父などには会わんね。ひょっこりと来てみることあったげんども、まるまって半日居たり、一日いたりはしねがったもんだな。後は若衆ばりいだものよ。若衆同士なもんだから、「おら家さ来い」なて、「いや、そっちの家さ行ったて、御馳走もないどこでさんねから、おら家さ来い」なて言い言いしたもんだ。そんなことは旦那はかまねがったな。
 びんびん寒じっどき、ツンとして立ってする仕事だれば別だげど、ねまったりアグラかいたり仕事すんなだから、寒くていらんねんだ。火の気のないどこには、んだから火焚いたり炭起こしたりしていだったものよ。集まっどきは六・七人も集ばったもんだな。助右ヱ門の木小屋などにはな…。
 若衆などオドケ話などばり語って退屈すっど、お菓子買ってこい、そして十銭ずつの割合だの、二十銭ずつの割合だのてお菓子食い食いしったもんだごで。大所(おおどこ)の川西町の平万吉という家あっこでな。そこは大所だった。そこには奉公人が四人いだった。もっとも三町五・六反作っていたからな。それも、旦那、こうしていっど、自分の家の田すっかり見えて若衆何しったかすっかり分んのよ。一人前なんぼに決っていっからよ。そいつ為(し)残すどすっかり付け留め(書き上げること)して差引きするわけよ。埋め合せ付けなければなんないのよ。
奉公人の食事の場所は膳部ていうて台所のかげのどこで、広く取っておいっだもんだもな。まいどはそこでお膳で食せっだもんだ。旦那も一緒に食ったもんだ。あっちの方では別だかも知んねえげんども、一般には旦那も一緒に食ったもんだ。
 四人も五人も置く家では、「鍬頭」というて一番古い者を頭に立てて、「今日は何々だ」て、仕事の段取りをすんのは旦那でないのだも。鍬頭を立てていたもんだ。奉公人の中からよ。長年いた人でな、その家の土地分っている人を、ちゃんと、「今日はまず田の草やめて、畠草生えたから、畑返してもらいたい」とか何とかという者が言うわけよ。草刈りに行ったときは、一反の草は半日で、何でもかんでも刈んなねなだな。馬で持って来んべぁ、車で持って来んべぁ、一反ずつは刈んなねがったな。小前にいだって田の草なの熊手で取る時代だと、五十刈ていうから、九畝もあっどこの草取らんなねがった。
 若衆はその家の親父ど朝げから晩げまで喰付いて仕事すんの嫌だべ。と、「請取りする」ていうど、「ほんでは、あんまりええごで」て言う。そうすっど、「どこそこのは五十刈だからあそこすんべ」どて、てんでに鎌と砥石と熊手持って行くわけよ。そうすっど自分が早く終して遊びだいもんだから、御飯食ってはぁ、昼休(やす)びしないですぐ取るわけよ。そしてお天道さまあるうちに終して来て、家の人来る頃など、退屈して遊んで居(い)、居(い)したもんだごで。
「いや、にしゃ(お前)早いもんだ」
 なていうど、
「おらだ、昼休びしないもんだも、そのくらい休まんなねごで」
 なて、親父さ言うど、「ほだごで」なているもんだったな。
 田植の一丁前は五畝だったかな。苗取って植えて、んだから楽でないのよ。そうなっどその苗は朝仕事に取っじだ。おらだの場合だど朝の二時に苗代さ行って取ってみだって、二四〇から二五〇など取ればタバコ一服つける暇がないがったからな。かなり楽でなかったな、一丁前な仕事すっど思うど、とっても楽でないがったな。女の人が苗とって植えるだけだと七畝だったかな。
 下の平助さんなていうどさ行ぐじど、蚕千枚も置いて、そして田は三町も作って、若衆の五人もおいていだもんだけな。して、田の草取りに来て呉(け)ろなて、七八人で行ってみっじど、「ここは一人前だっし」なて旦那言うて渡すわけだ。それだけの費用出さんなねと思っているもんだから、かまわずあずける。こっちは弁当持って行ってだからな。そしてサツキなど、あそこははっきりしたもんだとおれは思い思いしたな。田植終してサナブリだなていうど、田植衆ばっかりしか食せねぇもんだ。蚕手間取りはめないなだからね、さっぱり。蚕は蚕で、上がった時には、「蚕サナブリ」てあっから、そいつはさっぱり関係ないなだからて、餅など搗いだって、蚕衆にはさっぱり食せね。そこははっきりしてるもんだと思ってだな。同じ家で稼いでいて、蚕と百姓で違うばりの話だげんど、そんで一ぺんに半俵(はんたら)も大臼で搗くんだぜ、十人ぐらいで、そいつケロッとして食せねもんだまな。おれぁ魂消だったな。そして田植衆に、
「そなだ、稼ぎわるいから餅食せらんね」
 なて、むさずらっで(ひやかされて)いるもんだっけ。
「おらだ、おらだにサナブリあるもんだも」
 なて、蚕衆もケロッとしているもんだっけ。これは随分はっきりしたもんだと思っていたもんだな。
 奉公のときは、夜わり(夜仕事)してお湯さ入って、タバコ一服喫んで寝っど、やっぱり十一時にはなったな。ほんでお茶など沸かして飲まんねんだ。沸いていれば、「お茶など一服して寝っか」なて、飲まれっこともあったげんど、女子衆は寝てしまうんだしな、十時半などに寝られっこんだれば早いほうだったな。朝はやっぱり六時半ぐらいだったな。牛馬に食わせねでいらんねもんだから、今じぶん(冬)だればお湯沸かして食せんなねんだし、馬だれば水ですぐにも食せられっけんど、やっぱし、あんで朝げもそう寝ていらんねもんだもな。冬は二人いれば一人は道つけ(雪踏み)で、一人ぁ飼料食せんなねし、是非とも起きんなねし、でも草刈りでは一番やせたな。二時起きして行って一反刈ってきて、そしてまた車ひっぱって行って晩方また一反刈って、早ければ肥塚拵うとか何とか、仕事あったもんだ。隙はないもんだったもな。
 田畑そんがえいっぱいない人は、今みたいに就職なていうことはなかったからな。まず学校あがれば、何でかんで、女だれば飯炊きとか、男だればどこそこさ一年奉公とか、まず親たちとしてやったもんだな。とても家さばり置いておくと我侭で仕様ないなていたもんだもな。そだな時代だから行く人だって、やる人だって何だて思わねでいたものだったべ、その時代はなぁ…。
 奉公に行ってで、途中で移るということもあったな。そんどきは金で、その旦那に承諾してもらって、三千円なら三千円がな、これから稼がんなねげんども、そいつこんど金で返すから、隣の家さやっから、そうして呉ろて、親たちと旦那が相談したもんだ。
「いやいや、おら家だって一年と考えたもの、金で返すことはしてもらって困る。今年どうあっても勤めてもらわんなね」
 て言われれば、これは泣き往生しておかんなねがったわけだ。前金とんねったて、百円の場合は五十円とか六十円とか取ってるもんだからな、後の残金は稼ぎ終ってから残金は支払うと約束しているど、その金、証書にして、お前どさやっか、なていう旦那もあったもんだ。そうすれば利子つくわけよ。
 大抵の旦那は盆・正月、手拭一本だったな。タバコ・シャツなど呉れるのは、ええ旦那であったな、それさ銭の一円もつけてもらえば、うんとええ旦那だった。衣類などは自分が買って着んなねがったな。んだげんども旦那によっては仕事着と股引は呉れるもんだけな。
 休みはところによってちがうげんども、四日おきに一日だったな。映画見に行くぐらいなもんで、後は友人と遊んだもんだ。なんぼ休みだなて、夜飯前には飼料すんなねから、遠かいどこさ行くときには、家の人さことわらんなねがった。
 本調査のために、奉公人の生活の体験者を探していただいた渡部史夫氏(米沢東高等学校教諭)と井上俊夫氏(山形県西置賜郡飯豊町役場広報係長)に感謝いたします。飯豊町内には今も各農家には木小屋があり、農具小屋として使用されている。
(飯豊町松原 山田さん聞き書き抄)
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