木小屋の生活(1) -(2)木小屋生活のこと-

 木小屋は二階に藁つんでおくし、階下は農具など入っで置いっだもんだ。養蚕のときには、桑など積んでおくこともあったな。そのあたり、十二月から四月あたりまで補習学校というのあったもんだも。それさほとんど義務的に出はったもんだ。そして夜七時から九時頃まで一週間に四回、昼はよくそこここで藁仕事などしたもんだな。近所の若衆が寄って部落によって違うげんども、一軒の家でさえも五六人いっどこもあったからな、ほだから十人も集まっていっどこもあったべな。東の方の大きな百姓だどよ。そして一丁前なていうことあったな。
 一丁前ていえば、ミヌだれば、雨ミヌというのは一日に一つ。それから荷物背負う丸ミヌていうのは二日に一つ。それ、三日間というものは旦那から手間を、奉公人はもらうのよ。三日に終せという風にな。ジンベは一日に五足、深靴は一日一足、ハンバキは一足、ワラジ十足、縄は三百尋、荷繩は三本、それから屋根葺きのアシトウ縄は五本、それは是非ともさんなねなよ。ほだげんども、いっくらい加減(いいかげん)する人もあったごで。とても冬集まって藁仕事すっどきなど遊びだもの、やんやんて…。
 俵編みは十俵、タラバシは後から作っけんど、一日百枚。あれはひどいな。曲がっての仕事なもんだからな。 「今の若衆にか?いや、わかんね、わかんね。まいど(むかし)のこと言うど、馬鹿ばっかしつかして…なて」  若衆の集まりでの話なて、格別のことなかったな。女の話ぐらいなものでな、後からになっど、百姓などしても分んね、んねがなていう話にもなって来(く)っかったげんどもな。
 同志会作ってから、胆試しなていうて、やったことあったな。墓さ行って位牌持ってこいなんてな。  木小屋に集まる人は、奉公人がほとんどだな。その家の息子さんも顔出すことあったげんど、ほとんど働いて(奉公して)いる人だったな。まあ小作人の子どもさんというものは、長男でも奉公さやらっだもんだな。働きに、家に父親とおっかちゃがいっから、一町歩そこそこの田なんだからな。んだから子どもが奉公にやらっじゃんだもな。ほで四町歩ぐらい作っている家では若衆六人ぐらい使っていたもんだな。そして木小屋の二つも作って、そして両方で秋などなっど稲こきしったもんだな。米拵ったり。その代り必ずしも年内中に米出し終えるなてないんだも。春になってからも稲こきして出していだったもな。千歯で脱(こ)いで始末して一人前四〇束だったものな。
 木小屋には近所衆も集まって来たな。んだから傭った傭わっだなんていう気もあまりないがったな。晦(つめ)には前金一年分ぺろっと持って行かっでしまうんだ。親父に。後はカラ稼ぎだもの、とても仕様ないから居るていうもんだも。ほだから研究して稼いで、いっぱい採って呉(け)っかなていうことなく、「こうしろて言えばオイ」「ああしろて言えば、オイ」て稼ぐだけの人間で、余計なてあったもんでない。んだげんどもその時代でさえ、若衆の飲み屋うんとあったからな。飲み屋さ行って金使っている者もよくいたな。ここにもあったし、高石にもあったし、停車場前にもあったし、萩生のあたりさも行ぐがったな。旦那はそいつが分れば、ごしゃぐべげんど、若衆ていうど、一定の場所さ寝せておくんだな。木小屋の二階とか、あまり家の人が感じないどこさ寝せて置っからな。そうすっど何時来て寝たなていうことわかんねぇこともあるんだな。旦那も知しゃねでいるんだな。おらだみたいに入るにも出はるにも錠あけて出はらんなねどこは別だったげんどなぁ。
 親父は晦(つめ)に前金とって来て、ぺろっと使って、次の年旦那さ金借りに行ったらこりっと借りらんね話だごで。若衆借りに行ったらぺろっと使って、親父が。そんなこともあってだごで。借りらんねていうことな。ほだから楽しみといえば、そんな楽しみもあったんだべな。椿から長井の女郎屋さ行って、女郎屋で女郎買いして夜のうちに帰っている者もいっぱいいだけな。
 御飯は主家の台所で食べっかったな。もっとも六郎兵衛とかという大きな旦那衆だど、若衆食べっどこと、家の人食べっどこ別々にしったもんだげんども、大体ここの百姓家は家内と同じであったな。  夜御飯食べっど若衆は炉にあたっていたもんだ。子どもがいれば婆んちゃが昔話など語って聞かせたもんだ。奉公人だって一緒に聞くこともあったな。
 奉公には家によってちがうげんどな、五十才先になっても、一生奉公している人もいたげんど、大体やっぱり三十才ぐらいで家さ寄ってだ(戻った)もんだ。家の親父さんでも逝くなればほとんど家さ寄ったもんだな、親父さんでも生きてれば奉公してる人もいたもんだな。それからあまり田作んね人でもあっど、家の生活の勘定あんべし、百姓奉公してる人もいたけな。もっとも手間取りもあったげんどな。んだげんど家によって十二月に金要(い)る場合などあっでソな、そうすっど是非とも奉公して一時金もらって来らんなねべ、やりくりさんね家庭では年取っても奉公してる人あったな。小学校終えれば必ずといっていいほど行がんなねと決まっていたもんだな。
 十三・四才で行ったもんだな、奉公に。小学校四年生で卒業だからな、その上高等二年生なんだげんども、ほとんど高等小学校など出ながったな。一年で六十円ぐらいだったな、奉公してな。
(飯豊町椿 佐藤さん聞き書き抄)
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