17 善光寺の由来

 お釈迦さまには三千人からの弟子いだったど。そのうちの偉い者が五百人いた。そいつが五百羅漢で、そのうちにもえらい三人とか四人いた。それがアナン尊者、モクレン尊者などだった。ところが印度一のガッカイ長者という人いて、そのガッカイ長者はすこぶるケチンボで、施すものは何一つしね。そしてまずお釈迦さまは仏教を説くには信者をふやさねば分んない。信者をふやすには相当の銭が要るわけだ。何とかしてガッカイ長者を信者につけようと、托鉢に行ったど。せっかく来たので、鉢の子いっぱいぐらい米量ってくれるべと思ったら、
「いたましい、まず、そだな呉れなくてええ」
 て、せっかく突(つ)出した米を途中から引き戻して呉れねというほどのケチだったど。ところがある日のこと、その女中は米をといんだけそうだ。そのとぎ汁、それは捨てるもんだ。ほだからええていうわけで、鉢の子さ、
「トギ汁一杯、これだけは、おれは自由になります、つまらないもんだげんど」
 て、トギ汁を上げたけど。そいつをお釈迦さまが一口飲んで、
「これは結構だ」
 て、連れて行った弟子さ飲ませたて言うんだ。ところがそのトギ汁のうまいことて言ったら、何さたとえらんねぐらいうまかった。つまり女中の心ざしがうまがったんだ。そうしているうちに、アナン尊者は男振りのええ人だったど。その長者の一人娘がアナン尊者ば見染めたて言うなだ。さぁ、見染めて病気になってしまったんだど。何たる医者さかけても治るもんでない。占い師をたのんで聞いてみっど、
「心に思う人をまず聟にもらうなら、一枚板へがすように治る」
 こう教えらっだど。誰だといろいろ探してみっど、アナン尊者だど。ところでアナン尊者はお釈迦さまの弟子で、
「なえったて、そだなとこさ行かね」
 て言うのだな。ほだどホレ、その娘死んでしまうていう。「ほだれば」て、お釈迦さま、いろいろ考えて、
「誰か、これはアナン尊者に似っだ仏像を作ってガッカイ長者にやったらええ」
 て。んだげんども、それを作る材料がない。金というのは、竜宮のインブタンゴンというのがある。それをモクレン尊者を竜宮に行かせた。ところが竜宮の王様言うには、
「これは竜宮では唯一つの宝物だ。いかに釈尊といえども、唯あげるわけに行かない」
「これほどに願っても、それを呉れらんねがよ。呉れらんねごんだら、おれにも覚悟がある」
「いや、何と言われようと上げようない」
「ほだか、このように覚悟をきめて来た。後から謝まったなて言うなよ」
 何すっかと思っていたら、鉢の子で海の水を汲んで飲んだてだど。三杯ばり飲んだところが、海の水三分の一になったど。こんでは海の水、まるっきり干されるって、竜宮の王様恐っかなくなった。海干さっでからざぁ困った。
「ほんでは、上げっさげて」
「いや、ほいつはインブダンゴンさえもらえば、海の水は元通りにしてあげる」
 て、飲んだ水を吐いだてだ。そしたれば元の水量になったてだど。そしてインブダンゴンは固くて熔けるばりしねてだな。お釈迦さまは智恵を出して使ったのが、善光寺の如来さまだったど。
 そしてガッカイ長者どさ持って行ったんだど。喜んでガッカイ長者はお釈迦さまの第一の弟子になったんだどな。
 それが何年か後に、聖武天皇のときに日本に来たんだべ。そして蘇我と物部氏が争ったとき、物部守屋が難波の池さ投げたっていうのだど。それが何年かおもって、信濃の本田善光という人が用あって大阪さ行ったとき、夜でもあったか、池のほとりをとぼとぼ歩いっだら、「ヨシミツ、ヨシミツ」て呼ばる声する。うしろ見ても先見ても誰もいねていうんだ。そして見たればお月さまの光でそこら明るくなっている。池さ沈んだ如来さまで明るくなっている。
 それから不思議だと思って、池さ入って拾い上げて持ってきて、牛の上さ建てて祀っていた。病気の人が何千人とお詣りに来るようになったど。それが善光寺如来さまの縁起だということだ。
(横尾権次郎)
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