私の民話再話論

 話上手に聞き上手という言葉がある。民話は語り手と聞き手の対話でもあったから、聞き手が下手であれば民話そのものも意味を失なってしまうものだといえる。聞き下手をそしる言葉に、山形では、〈むかしはむっかえって、話ははんじけた〉というのがある。笑い話を聞く年齢層は、いわゆる若衆層であったから、聞き下手をそしる声も、きっと高い強い声になったろうことは想像できるというものである。
 本格昔話の系譜から語られた笑い話の中には、ともすれば江戸小咄のような、住所不定の笑い話が多く、粋でギャグのきいた、いってみれば小市民的な笑い話が多かったように思う。そして従来の研究そのものが、本格昔話の重厚さに対して、笑い話に粋な笑いを求め、その粋さ加減で笑い話の価値を判定しようとした向きがないでもなかったように思う。「和尚と小僧」などは格好の材料になった一例といえるかも知れない。
 しかし小市民の笑い話の中にあるものは、笑うことだけが唯一の目的でもあるかのような、ナンセンス話に見られる軽さみたいなものが中心である。農民の無知を笑いとばし、笑いとばすことによって、あたかも自分が高みに立っているような錯覚を抱く、そんなところに笑い話の味があるとでも思っているような面がある。「馬鹿むこ話」から始まり、「屁たれ嫁」を通り、「八十一枚目の田」までに至ると、笑いは急にこわばりはじめる。一度聞き、二度聞きするうちに、その笑いは、自分に向けて笑いが集まってくるといった重い笑いになってくるのではなかろうか。夕方の薄暗くなった山手の、耕して天に至るという段々畑の中で、一枚、二枚、三枚…と数えている聟の姿は、次第に自分の姿に重なり、暗い歴史の中でただ黙々と耕し、百姓、畜生、モグラモチは上を向かず、下を向いて土を掘っていさえすればいいという米沢地方にある言葉とおりに、ひたすら土を見て暮さざるを得なかった農民の姿に重なってくる。
 こう見てくると、農民の中に伝承された笑い話は一種の重さをもったものであったといえそうである。「寝太郎」話もあちこち聞いて廻ると、寝太郎という人物に対する評価が二つに分れていることを知らされる。「寝ぼけ先生」などという言い方にも、すでに見られるように、ずるさを持った寝太郎像が一方にあり、みごとに長者の聟になる賢こさが描かれるが、他方長者をみごとに庶民の立場で打ち負かしてしまう寝太郎像を語ることによって強欲な金持や小役人への反撥と怨念を見ようとするものもある。
 東北の農民は鈍重だといわれる。その鈍重さは決して愚鈍そのものでないばかりか、鈍重さの中に秘められた鋭敏さを、十分に笑い話は示してくれているといえる。「てんつ(嘘つき)」話に登場するほら吹き連中は、まさに農民が創造した最も愛すべき連中にちがいない。だが濁酒の粕を柏の葉に上げておくと雀がやってきて粕をくい、酔って葉の上に眠りこけてしまううちに、太陽の熱で葉がくるくると丸くなって、雀を包んでしまうという嘘話を語って、ほら吹き大会に勝ち、一年間の人足を免除してもらったり、それが地名となって、村人の共有財産になったという、そんな語り振りには、単なる笑いを誘う話以上に、宿場町の助郷役としての出役という人足の負担の大きさをはねかえそうとする、農民の願いが込められていたにちがいない。フォニイとしての「ほら吹き」連中を創造することは、願望の裏返しであり、フォニイを転換点として、自分たちの幸福をより具体的に表現し、実現していこうとする意志の現われと見ることができる。
 細々とした日常生活における不都合の集合体としての不満をはねかえす力というものは、一見ナンセンスそのものと見える昔話の中にも見られ、それが大話になる。「大杉の秘密」に登場する大杉の親分に対する、木か草かさえはっきりしない、みそはぎの不満が親分の大杉をさえ倒してしまう寓話の中に、きっと人々は、おごる平家、おごる役人を見たことであろうし、誰しもが武士になるというわけにいかない時代に、行き倒れの武士の装束をうまく剥ぎ取って武士となり、殿さまの姫を手に入れてしまう「ほら吹き」を語ることによって武士支配の社会への痛烈な批判を行ない、溜飲をさげたものなのだろう。
 農民の生活の中での喜びとは、もちろん自分たちが手塩にかけて育て上げた稲が、作物が見事に開花し、すばらしい実を結んでくれることであったろう。その結実のためには、日常生活において苦労の連続であったに相異ない。「弥兵衛どんのうるしの木」の弥兵衛が自ら気狂いの真似を演じたのは、決して自分のためでもないし、あるいは村のためでもなかったのかも知れない。はっきりいえば、正気そのものであったかも知れない。あるいは…と私はこの話を聞いたときのことを思い出す。白鷹町の深山という部落は古い歴史をもつ部落である。そこには藤原時代に建立されたといわれる阿弥陀堂があって、深山観音と呼び、岩手県平泉の中尊寺の建築をそのまま模したもので、京都の文化が東北に伝えられた初期の時代のおもかげが今も残っている部落であるが、そこの弥兵衛どんはのっそりした大男で、常々部落の人々からは馬鹿といわれていた人物であった。その人物たる弥兵衛どんと共に部落の人々は共同体の一員として生活をしていたことが誇りでもあったと、青木さん(話者)が語ってくれたのを思い出す。そのような人物は村に部落にいつも居って、ふだんは一緒に人足に出、祭りに参加したのである。「水の種」の百姓も、はるばる箱根権現まで水の種をもらい受けに参詣し、部落に帰るすぐ前に、失敗して水の種をこぼしてしまうのだが、人々は感謝こそすれ、決して非難などしない。
 こう考えてくると、農民の間に伝承されてきた笑いの根源にあるものは、共感の笑いであって、卑下したり、非難したりする笑いではない。この点で、江戸落語などの小市民の笑話とその本質において異なるものだといって、決していいすぎではないだろう。
 同じことは、生殖を根底においた、性についての笑い話についても言えることである。山形県下ではほとんど各農家に、木小屋といわれる農作業小屋があった。地域によって、藁仕事小屋といったり、農具小屋などともいっているが、若衆が任意に集まり、藁仕事をやったりする小屋であった。だが他地域に見られる「若衆小屋」や「娘小屋」などとちがって、村の組織に組みこまれているものではなく、三々五々、好きな若衆が集まり、藁仕事をやったり時によっては雪降りのころ、餅あぶりをしたり、ちょっぴり酒をくらったりする溜り場でもあった。いってみれば半ば公的に黙認された小屋であり、半ば未公認の、しぶい目で大人たちから見られた場所でもあった。十五才ごろから二十才ごろまでの男衆の溜り場であったといってよいものである。男若衆はそこで村の娘の品定めをし、性についても大らかな話に打ち興じ、心弱い友人を勇気づけたりもした。地域によっては若衆の中から音頭をとる人が出て御祝儀の進行をしてくれる場合もある。だから生殖にかかわる笑い話は決してそのまま淫靡なものにはならない。
 山村に入れば入るほど、今でも大らかな性を語り伝えてくれる話者が多い。ダム建設のために村の半分が消え去った中津川というところは「花笠おどり」の花笠の主産地であるが、花笠が一枚できあがるまでに男と女、年寄りと子どもの協力が必要であった。笠の原型である輪作りは男の仕事であり、菅草をとりつける「笠縫い」は女の仕事である。年寄りと子どもは編み上がった菅の端を包みこむ「ツツガラミ」をする。そして二メートル以上にも降りつもった雪の日に、同じ年令の人々があちこちの家をめぐり、あるいは順宿にして仕事をすすめてゆく。そこではその手間賃はすべて働き手である男も女も年寄りも子どもも働き分に応じてもらう。もちろん姑と嫁の問題がないわけではなかったろうが、しかし嫁は姑の前でも大声で語り合うことができたし、姑と一緒に、こんな「臼挽き唄」を歌ったものだと教えてくれたのは、百話をこえる昔話の語り手である西置賜郡小国町に住む川崎みさをさん、高橋しのぶさんである。
   臼の廻るほど身は廻れども なぜか姑の気に入らぬ
   姑ばさまは鬼でも蛇でも かわいい殿御の親だもの
   臼はやえがみおかまり来ない 廻りかぜだよ おえん婆さ
 嫁は姑の悪口を唄にうたい、姑は嫁たちの歌をきいては苦笑していたものだったという。「姑と嫁」の笑話や「屁たれ嫁」の話は、一面では大変深刻な状況を想像させながら、他面ユーモラスであるのは、語られる状況を炉端から木小屋に移したときには、むしろ嫁の豪気ぶりを語るという傾向に近づいてくるとみることもできそうである。
 大地に足をおろして、大地のめぐみの中から米を作り、野菜を作っている者たちの生産者としての誇りは、やがて木小屋の中から社会へ向けられて行く。雑俳をたのしむ若衆もあり、農業の未来に目を向ける若衆もあったし、さらに矛盾した社会の体制へさえ向けられて行った例も多かった。各地にのこる「快盗譚」は義賊を心の中に育てて行った。馬鹿な真似をしながら、小役人をあざむく話ともなった。そして実在のひょうきん者に仮託して、山形にも「佐兵ばなし」が生れたといえる。地元の米沢市近郊の露藤に行くと、高橋佐兵次という人の墓があるといい、その細かい資料が集められ、戸籍簿が作られている。再婚した母に連れられて、母の婚家で苦労し、若者になってようやくつかんだ幸運が、旅侍に横恋慕した妻の失踪によって一夜にして不幸のどん底に陥され、生涯を下男生活で終えた彼の放浪の一生は、それだけで一篇の話になろうというものであるが、その地が天領と上杉(米沢)の私領の間にあったということで、ある時は天領になり、ある時は上杉領に組み入れられるという歴史上の不運と重ね合わされて、「佐兵ばなし」が生れてきたのであろう。「悲恋の佐兵」という口説き節が俗謡として歌われたほどであるから、そういう人物を重ねて、旦那衆や金持ち連中への反撥や役人に対してたちまち狡猾者になる話は当時の村人を喜こばせ、勇気づけさせただろうことは想像にかたくない。
 口説き節はこう歌う。これぞと思った妻が男と逃げ出した後に残された佐兵は、
 
 泣いて涙もはやかれはてる
 あわれ無残な佐兵の姿
 死ぬか生きるか二つに一つ
 やがて佐兵は気をふりおこし
 どうせ逃れぬ化転の娑婆よ
 命長くも百まで生きぬ
 人の苦労も女人が元よ
 女人禁じて暮そうならば  洒脱円満苦のない浮世
 そうじゃそうじゃと心に決めて
 
 
 村の鎮守の白髪神社
 杉の古木の八町御門
 やがて神前の緒ふれば
 塵も邪念も迷いも晴れて
 澄める心は真如の月よ
 女人禁断誓いを立てて
 佐兵一生の願いがござる
 とても此の世は八苦の世界
 人を益すも仇にはならぬ やんれー
 
 と、覚悟をきめて村人と共に苦労し、絶えず村人に生きる喜びを教える。「酒の篭抜け」で役人をうまくだまし、「シラミ五升の質入れ」で金持をやっつける。だが佐兵の本領が発揮されるのは、木小屋に集まった若衆との話であろうか。あるいは若衆との連帯において幻の権威や権力にしがみついている小役人や金持の醜悪さを糾弾する佐兵の姿に、村人はかっさいしたのかもしれない。
 なるほど、いろりのなくなった今の農村では「佐兵ばなし」すらも生彩を失なってしまったようである。「薪がばりばりと音立ててな、ぐずぐずと大鍋に大根や蕪や藷を入れてな、そいつをつつきながら喋ったもんだ」と、ある「佐兵ばなし」の話者は、木小屋の生活を思いおこしながら語ってくれたし、「佐兵みたいな人は部落に一人はおったもんだ」という人もあった。
 笑い話は貧しい生活を余儀なくされている自分からの解放であり、また自分をがんじがらめにしばりつけている家や村や体制からの解放でもあった。そして笑いは明日の力にもなるものであったろう。だから笑い話を聞いた者たちは、次に古老を招んで高度な技術を要するミノとか藁靴などを編むことを習うのも忘れなかった。古い伝承された村の伝説にも耳をかたむけ、庚申講をはじめ虚空蔵講や山の神講で日待や月待の精進も忘れなかった。稚拙な文字で中折の紙に記録された「まじない」の呪文を山の中の村で見せてもらったことがあるが、それが四代も五代も受けつがれてきたものであることを知って、おどろきを新たにしたことがある。そしてそこの老婆は、今も時々病人があれば出かけて行って、どくだみの葉で膿の吸出しの処方をしてくれたり、まむしの目玉を持参して煎じては高熱にうなされている子どもに、その汁を飲ませて熱をとってくれるということだった。その老婆の話は忘れられない強烈な印象である。
 その部落は江戸時代からワッパを作ってきたところだが、ワッパ作りもまた冬の手間仕事で、ブナ材を伐り、それを割り、削っては板にし、その板を大釜で煮て手で曲げ、合せ目を桜皮で縫い上げて作り上げる。囲炉裡にはいつも赤々と火がもえ、そのまわりには五種類もの刃物が転がっている。孫がのそのそ這い出してくるのは大変に危いので、どこの家にも台所の板敷の隅に掘りコタツが切ってある。老婆はそこで孫がさわぎ出さないように昔話を語るのが仕事だったという。ちょっとでも子どもがさわぎ出すと、主人から声がかかったという。「うまく昔を語らないから、さわぐんだ」といわれて叱られたものだから、「一生懸命語ったもんだし、話がなくなると困るもんだから、茶のみ話に老婆が集まっては、昔を語り合ったもんだ」という。
 伝承というものが、単に遊びの中で行われたのではなかったということが、それでもわかるというものである。このような伝承の重さを、どう民話の再話に生かすということが再話者の基本なのではないかと思う。笑い話が本格昔話よりも軽いという考え方が、大いなる誤解に発していることは、すでに訂正されつつあるが、逆にいわせればそういう誤解をしつづけてきたのは、受け手である現代の読者というよりはむしろ再話をしてきた人たちの罪なのではなかろうか。大地に根をおろし、かたくなに苗を育て、畠をたがやしては植付けをし、雑草を猫のように体を丸くして、日なが一日、一本一本抜いては、水をかけ、苗の一本一本に声をかけては撫で、その成長を願う人々の愛情と、その人たちが背負ってきた地理的条件やら歴史的条件をこそ再話の中で、現代に伝えることでなければならないと思う。しばしば民話も再話も一時の腹ふたぎのオヤツと考えられてきた。しかし現代は民話が主食でなければならないことを、再話を通して確立したいというのが、私のねがいである。
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