2 大沢節の由来

 昔あったけど。昔、河川(かわ)が沢の流れだど五十は合さんなえげりゃ、そう呼ばれ る資格ながったもんだど。川て言てもおがしくもなえよな大きい宮田沢なの、枝 流がたった一つ足んなえばりで格つかなくて、川ど書ぎ上げらんなえて言わった もんだ。んださげ何でも沢て名付くど、どこが やしめ...(軽べつ)らったよな気がしてな。
 此処も今は町のうちだども、元は安楽城村て言たし、そのずっと昔にゃ、大沢 郷て言たもんだっけ。こごを流れる川だて今は鮭川て呼んでっとも、昔は大沢川 だったべや。同じ流れだども何故してだか名前ちげたもんだ。
 この大沢川が中ノ瀬の下流(しも)、岩木で真室川と合させ、そっから鮭川と名前も変 たもんだつけども、昔ぁそのへんば川口郷で呼んだ所(とご)だど。ほして川口衆達(だ) は川の奥(いり)の大沢ば やしめ...で、斯う言たもんだつけ。ホラ唄あんべちゃ、大沢節な。
   大沢三千石居だぐなえじゃなえども
   夜飯ぁ夜中で 度々(どど)困る
 この唄の由来はな、大沢て言う所(どこ)はこの川の奥(いり)だども、行ってみっと思いがけなえ広い所で三千石もあって、別に住んで住み難い所でもないべどもさえ。
 ただ女子衆(おなごひたち)のこぎ使われっ所でなや。中でも一番 こわえ...(辛い)仕事じゅあ根花掘でだど。山でわらびの根っこ掘起して背負って来て、ほれば川で洗てだおん。 山仕事さ、しかも水仕事重なっさげて こわえ...じゅんだ。
 夜ン飯も夜中時分になるごとだて度々だんださげ、却々 つとめ...の楽でなえ所で な。大沢さなの自分(わあ)娘だったら嫁になどやっ所でなえて。この唄はそう言うごど うだてんなだど。大沢衆がきいだら ごしゃぎ....そうなごと伝わてるもんだな。
 昔ぁ、根花て言うど相場もたって、一升桝で量て一円もするものは根花ばりだ て言たもんだっけ。勿論一円で白米一斗も購えた時分の話だども、山所(やまどこ)でや根花 掘りは一時(いっどき)宝掘りみでえだったんださげてな。ほれの出来なえ所では少し妬まし がったがもしんなえぞ。俺の聞いっだなでは、本当ン所(どこ)、こげたことがこの唄の 起りだつけぞ。
 昔の人はよぐ零すもんだけ。新庄さ行ぐて言うど、大沢を出はてがらばり五里 近く峻しい山坂越して行がなんなえ。川越だてかれこれ五へんも渡てたど。今み でえ立派な橋も架てながったべさげ、浅瀬を伝て渉ることもあたろがら、難儀し たもんだべ。
 昔ぁ、領米を納めんのにゃ、半俵にして人の背中で運ぶよりしようながったど。 新しい草鞋ば三足も たがて...行たもんだつけや。西山の峠さ来っど、お城(っしょ) も見で来る。そこでやっとやれやれて言う気にもなたべちゃ。一服してるうぢに、鼻歌(くぐぬきうた)の一つ二つ出はて来たもんだがもしんなえな。
 暗々(くらぐら)に家を出て来たたても、此処(こさ)来っど昼ま過ぎてしまうでやは。これがら峠ば下りで町さ行て、用事がすらすら運だどしても、家さ帰り着くな夜中なてしま うんだ。 しょんねえ.....(仕方無い)な。ふと胸さ浮んで来たごとがそっくど....歌になたもんだろ。溜息だて歌にもなれば、それでまだ力も出たがもしんなえ。考えでみっど、  大沢三千石ァ どっちしたてへつ..ない歌だったんだな。  どんぺからんこ なえけど。

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