1 祖母から聞いた

 祖母の佐竹いせという人は聟取りだった。その旦那で自分にとってはおじいさんは数馬という人だったげんど、昔話などは全然話してくれなかった。おとうさんは、たまに教えっかった。佐竹文仲というのがおとうさんだ。
 「猿聟入」の最後の、猿が木から落ちて流れて行くときに、猿がお姫さまにいうのは、たしか
    猿沢に流るる命はおしくない
       あとでお姫がお泣きやるべえ
 と、うちのおばあちゃんたちは付けて語ったもんだなぁ。そして、昔話(むかし)が終ったとき、うちの方では、こういうふうにつけたものよ。
    どーびんさいすけ、さいざぶろう、さいざのまなぐに火がはねて、けん
    けん毛抜きで抜いだれば、まんまん真赤な血ができて、めんめんめっこ
    になり申した。
 て、長くくっつけて終りになったもんだ。これが山形新聞にいつか載ってだっけが、ははぁ、あたしたち子どもの時分に聞いだと同じだなぁと思って、娘さも言ったもんだ。こいつは昔話終っど、いつでもつけたもんだな。ああ、そういえば、一番始まりは、「むかしあったけどなぁ、あるどころになぁ」て、こういうふうに、「むかーし、むかし、とんとむかしあったけどなぁ」なて、こういうので始まったもんだな。そして、
「あるどころになぁ、作内ていう人がいだんだけど。」
 これは父親から聞いた昔話なんだげんど、現実にあった話だって聞いたもんだ。それに、合いの手というか相槌ていうか、「オット」といったもんだ。

 生まっだ家は大井沢の延長坊というところで、三山の先達なもんで、んだから佐竹延輝(現在東京へ移住)の名前は延長坊の「延」の字をとって名付けだんだな。んで、宿坊は大井沢にいっぱいあって、自分の家は延長坊、隣の郵便局は妙学坊、円学坊、佐教坊、右京坊、宝来坊、西蔵坊など十三軒あるはずだな。そのうちで、今神主していんのが円学坊ていうどこの三代目か四代目で、いや四代目か五代目だな。宝性坊ほれから長元坊、両山坊というのもあるな。
 んで、正月ていうど、必ず社務所(現湯殿山神社、元大日寺跡にある)さ集まって、ほして朝晩拝み上げ、朝は七時頃から十時頃まで、夜は六時頃から七時頃まで、これは元日から八日の朝まで必ず社務所さ、坊の先達が集まって拝み上げしたもんです。そして自家あたりは、坊の会作っていで、講中で、月に一回、七日の晩、巡り宿でめぐりばんこに、お茶、あとお汁(つゆ)程度にして、そして月山、湯殿山、羽黒山のお祓い、祝詞(のりと)を上げたもんです。あたしは〈耳なり雀〉にそれを聞いてます。こっちも今は神主さ嫁に来たんだげど、朝日岳の神主の家に嫁に来たんです。
 先祖の、この像(自宅に安置してある神像)を寄付した人は、○○大姉というから女の人で、田地田畑みな寺さ寄付して、木川というどさ移った人らしくて、むかし漆は大切なもんで、左沢(大江町)公時代に漆の木の番人に、「あんたが行げ」て言わっで、行がねど首切られるので、木川というどころさ移って、漆の木の番人したらしいです。この話は立木部落でも知ってる人もいると思いますよ。んだから財産もええあんばいあったらしいの、なかったら神社に寄付できないものね。山から畑からもっていた人でしたろう。
 立木という部落は、宮宿(朝日町)から朝日岳にのぼるとき通って行く部落で、西川町から行けば別の方通る。それから荒砥(白鷹町)から行けば、また別な道通るし、普通行く道は五つあって、庄内の方から行けば朝日岳を縦走することになって大井沢に降りるとか大江町に降りるとかということになる。んだから朝日岳さは、庄内の方からと、小国の方からと、荒砥の方からと、西川町、左沢からと五つあることになる。

 うん、昔話で一番よく聞いたのは、「作内ばなし」だなぁ。語ってみっか。
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